思い出はいつだって優しいものだと山吹薫はそう思う。
昔々に貰った、この人を嘲るような黒猫のマグカップは随分と色褪せている。それが黒猫であったとは思えぬくらいにだ。
少し穏やかになってきた気候の中でも、変わらずにそれは思い出を携えたままに透明度の高い湯気とインスタントコーヒーの燻んだ香りを携えている。
石峰優璃と呼ばれる主任はかつて勤めていた救急病院の自分の上司で、今では思い出となってしまった人だ。その人と暮らした日々は今でも色褪せる事なく心の中に存在している。
仕事に慣れてきたある時、気まぐれに主任に尋ねられた質問。それが僕と主任との日々の始まりだったと今では思う。自分では分かっているだろう事を主任は楽しげに僕に訪ねてきた。
人体を構成する様々な要素とその働き、それは血管さえもそうであった。
教科書とは違い人に説明する事は難しく四苦八苦はしたものの、その様子を楽しげに見守る石峰に目を細めつつ業務後のリハビリ室に鳴り響くサイレンの音を聞いていた。そして主任は言うのだ。『楽しいリハビリテーションの時間だ』と。
解剖学だけではなく人体の働きもまた同様に、僕は主任に語っていた。当たり前に測定する血圧にだって様々な意味する所があり、そして様々なリスクを考えなければならない事を知った。そして興味深く僕を観察する主任の意図を図ろうとも、その時の僕にはそれは分からなかった。
その成人しているか怪しい見た目のままに、少女がいたずらを仕掛けるかのように、主任は僕に接した。肩を並べるには程遠かった。いつだって僕の答えは『半分だけ正解だな』その言葉で締めくくられた。そして救急科という非日常的な場面での出来事はすべて日常から繋がっている事を良く語っていた。
内海青葉は主任と肩を並べる理学療法士の一人だ。その奇妙な髪型と終始止まる事のない体の動きは目障りだったが、それでも確かな知識を持つ。血管や血液の話と合わせて『死』に繋がる言葉がリハビリを行う上でも身近にあるものだという事を知った。それは僕にも主任にも同様に
岩水静は聳え立つような巨躯の理学療法士であり、その言葉のそれからも現代を生きるには勿体ない程の武将を思わせる豪胆さがあった。人の体を守る機構を戦闘に例え分かりやすく説明する。なんとも過激だと今でも思う。
主任は事ある毎に『そういう私に君は何ができる?』と訪ねた。自身がその疾患を患ったとして僕がどんなリハビリを行えるか、そんな不謹慎な問いだ。学ぶ事と出来る事は大きく違う。そして感情を心にする事も。僕の心を主任は見抜いていたのだろうか。それは今でも分からない。
進藤守は、あの時のチームで唯一今でも存在する腐れ縁だ。軽率なその立ち振る舞いは今では失われてしまったが、それはお互い歳を取った。という事だろう。何も意識を失うのは外傷だけではない、体を巡る重要な栄養素である糖分、何度も繰り返しては慣れてしまう。それは恐ろしい事だと思った。
内海の受け持つ広範な脳血管障害を起こした患者はいつだって僕の祖父を思い浮かべさせた。そして人が人であるためには様々な機能が必要である事を知り、自分に触れられた主任の指先の温度は今でも覚えている。
もし神経の動きが失われたらどうなるか。それは恐ろしい事だが必ず知っておかなければならない。そしてどうするべきかはやはり今となっても課題となる。その話の最後『私が私で無くなったとして・・・君は私に何をしてくれる?』その問いの、セラピストとしての答えは今でも分からない。
休暇から帰ってきた高橋美奈は救急科唯一の作業療法士である。その活躍は主に脳血管障害で発揮されている。重大な障害である脳血管障害が如何にして起こるかその理解は必要だ。そして見た目麗しい彼女がなぜモテないのかはその時には分からなかったが、今となってはまぁ納得である。
今考えると自分の新人であった時代は恵まれていたと思う。そんな話を目の前の白波百合は楽しそうに、時折笑い声を上げながら聞いていた。すっかり辺りは暗くなっている。もう帰ろうかと声をかけると、不服そうに頬を膨らませている。僕はため息を一度だけ吐き、その先はまたいつか話す事を約束した。
絶対っすよ!
そう話す彼女の意図もまた分からない。話している内にやはり気持ちは昔のままに戻っていく。だけどもこの先の話を話す気持ちはまだ決められていない。
この先は主任を失う話。
そしてそれは僕が今の僕となった話なのだから。
さてと。と僕は白波と共に休憩室を出る。明日もまた昔とは景色の違った喧騒の中の日々なのだから。
手足をいっぱいに伸ばして歩く白波を眺めながら、さて次は何を話そうか。
そんな事を山吹は考えていた。
【これまでのあらすじ】①
『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。』
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